
綺麗事って必要なん?



うむ、必要やね。
誰でも一度くらいは、「綺麗事なんて必要か?」と思うことがあるかと思います。人生ある程度、生きていると「あれ?綺麗事を真に受けていると損しない!」といった場面に色々でくわしますからね。そう、「綺麗事の多くは非現実的」なんです。だから、「こんな無駄なものいらねえよ」と言いたくなっても仕方ありません。
そんな感じですから、綺麗事は必要なのか、気になりますよね?結論から言うと、綺麗事自体は個人と社会の発展のために必要です。なお綺麗事を不要であると切り捨てて世界から根絶したら、以下の様な厄災が発生する可能性が高いです。
綺麗事を必要ないと切り捨てると発生する厄災





信頼と協力の崩壊は、ものすごく問題や!
「綺麗事なんて必要ない!」と個人が思うのは自由ですが、「社会に綺麗事なんて必要ない」となるとかなり話は違ってきます。綺麗事は言ってみれば、「社会のあるべき姿の提示」であり、これが存在することで変に不信感が蔓延せず、心理的コストが抑えられるので必要です。
そして、綺麗事に敵意を持ちやすい自覚がある方は、まずは日々のメンタルケアを徹底する事がおすすめです。精神状態が悪いからこそ、綺麗事に対して食って掛かりたくなることは実際よくありますから。とはいえ、自力で効果的なメンタルケア対策をきちんと行うのは、なかなか大変ですよね?
ですが、メンタルケアアプリのAwarefyを使えば、手軽に日々効果的なメンタルケア(マインドフルネス系も充実)ができるので、とても便利です。また、Awarefyは1,200円から利用でき、経済的負担が大変少ないのも魅力です。日々のメンタルケアをコスパよく行いたい方は、ぜひAwarefyをダウンロードしてみてくださいね!
\月間1,200円(税込) ~/
\AIが認知行動療法でメンタルケアを徹底サポート!/
/24時間いつでも悩み相談可能!\
綺麗事の必要性を3つの視点から徹底検証





綺麗事は、果たして必要なんかね、、?



一回、必要性をきちんと検証してみよう!
綺麗事とは、「現実を無視して表面だけを取り繕うこと、ないし体裁を整えること」、つまり「建前」を意味しています。例えば、「努力は報われる」や「因果応報」、「神は乗り越えられる試練しか与えない」みたいなものが、この最たるものです。
まずは、こうした綺麗事の必要性を、検証していきたいと思います。綺麗事の必要性を検証していく視点は、以下の通りです。
綺麗事の必要性を検証する視点
- 視点①:社会的視点
- 視点②:生物学的視点
- 視点③:心理学的視点



それぞれ、詳しく見ていこう!
視点①:社会的視点


まずは、綺麗事の必要性を「社会的視点」から検証してみたいと思います。綺麗事、例えば「因果応報」や「努力は報われる」、「神は乗り越えられる試練しか与えない」といったものは、いずれも現実世界では全くと言っていいほど妥当していません。
盛大に悪事を働いておいて老衰弟子を負える悪人、いくら努力しても成功したなかった人、苦労の末に人生が嫌になって自殺した人、、いくらでも例外などあります。しかし、それでも社会全体の統制をとったり、人間関係を円滑に運ぶことを考えた場合、綺麗事はそれなりに有用なものとなります。



まあ、正直に言いすぎて、角が立つことってあるからねえ。
例えば、誰かが色々手を尽くした末にうまくいかなかったときに、その都度的確な助言をするにしても、失敗の本当の原因を角が立たないように指摘するのはかなりの労力です。そうした時に、綺麗事があると万能ではないものの、ある程度やんわりと会話を終わらせることができるので便利といえます。
つまり、綺麗事があるからこそ人間関係がこじれにくくなっている面はあるんですね。また、綺麗事の内容は得てして歴史上の人間の過ちを戒めるものですから、綺麗事が社会に共有されることは過ちが繰り返されることへの一定の抑止力となるといえるでしょう。以上から社会的視点見た場合、綺麗事は必要であるといえるでしょう。
視点②:生物学的視点


つぎは、綺麗事の必要性を「生物学的視点」から検証してみたいと思います。
世の中で広く共有された綺麗事は、ある意味でその言葉自体に意味があるというより「おはよう」や「こんにちは」といったあいさつのような機能を持つ言葉として機能するかもしれません。



ふむ、あいさつみたいなもの、、そうねえ。
つまり、言葉自体の意味よりも「社会的交流を促進する」という機能が、綺麗事の主要機能であるということです。人間を含む霊長類において小さな社会的交流(雑談・挨拶)が群れの結束と情報共有を可能にし、集団適応を高めるといわれていますから、社会的交流の促進剤の存在は結構生物学的には理にかなっています。
以上から生物学的視点から見た場合、綺麗事は必要であるといっても差し支えないと思います。
視点③:心理学的視点


最後に、綺麗事の必要性を「心理学的視点」から検証してみたいと思います。
綺麗事、例えば「努力すれば報われる」や「因果応報」、「人生に無駄な事なんてない」などという言葉は、現実を見ていると、正直なかなかに無理があるのは事実です。ただ、苦悩する中で自分と折り合いをつけて、また前向きに生きるためには、役に立つこともあります。もちろん、万能とは言えませんが。



ま、言われると、腹が立つこともあるからね。
例えば、因果応報という言葉を内面化していれば、限度はあるものの多少嫌な目にあっても相手への復讐心で頭がいっぱいになって自分のやるべき事が手につかない、、といった事にはならずに済みます。「天が代わりにさばいてくれる」みたいに思えば、ある程度溜飲が下がるという感じです。
後述するように、綺麗事を内面化しすぎると、現実逃避につながるのは事実ですが、逆を言えば綺麗事は「心理的衝撃を和らげる緩衝材」として機能しているとも言えその点では有用なのです。以上から心理学的視点から見た場合、綺麗事は基本的に有用なので必要であるといえるでしょう。
結論:綺麗事は個人と社会の発展に必要


以上から、社会的・生物学的・心理学的に視点から考えて、綺麗事は必要であると結論できます。確かに、綺麗事は現実を無視したような内容のものも多く、「何て不毛でばかばかしいこと言っているのか、、」などと感じられることもしばしばです。
例えば「因果応報」とか言いますが、悪事を働いておきながらのうのうと生き延び大して苦しむこともなく死んだ人間等歴史上いくらでもいたでしょう。ナチスのヨーゼフメンゲレもそのいい例です。凄惨な拷問にかけられ殺されてもやむ得ないほどの悪事を働きながら、彼は最終的に亡命先で心臓発作で死亡しています。



胸くそ案件や、、、これ。
正直、彼に苦しめられ殺された数多くのユダヤ人達の死に対する贖罪としては、あまりにも苦痛の程度が軽すぎますね。しかし、こうした綺麗事を内面化することには、ストレスの緩和や集団の協力、個人の信頼感などに機能的な寄与する側面もあり、社会全体で考えれば益はかなりの大きさになるものです。
そのため、基本的には綺麗事は必要といえます。ただ、後述するように、綺麗事との付き合い方はきちんと考える必要があるので、その点には注意が必要でしょう。
綺麗事を必要ないと切り捨てると発生する3つの厄災





んー、綺麗事なんて必要ない気がしてきた!



ふむ、でも綺麗事を一掃すると問題が起こるぞい。
つぎは、綺麗事を必要ないと切り捨てると発生する問題について、考えてみたいと思います。綺麗事を必要ないと切り捨てると発生する厄災は、以下の通りです。
綺麗事を必要ないと切り捨てると発生する厄災
- 厄災①:社会における信頼と協力の崩壊
- 厄災②:無礼や無関心の連鎖が起こる
- 厄災③:孤立と健康悪化の促進



それぞれ、詳しく見ていこう!
厄災①:社会における信頼と協力の崩壊


綺麗事を必要ないと切り捨てると発生する厄災の1つ目は、「社会における信頼と協力の崩壊」です。
綺麗事は内容を精査すれば、そのほとんどは理想論やその場しのぎの建前であり、厳しい現実の前にはもろくも崩壊する砂上の楼閣といった感じがあります。とはいえ、そんな綺麗事を完全に廃して、「現実ベースでしかものを語らない」としたら、社会全体に不信感が蔓延し協力的な関係が成立しなくなっていくでしょう。



そこまで行くかね?
というのも、先ほどふれたように、建前がなくなっておのおの本音ベースでものを語るようになれば、それだけ衝突が人と人との衝突が増えますし、何より社会に対する不信感が増大すれば、「いつ裏切られるかわからない(当然政府も)」ということで、社会に住む人々は自衛をするしかないという意識に駆られようになるでしょう。
お互いに対する信頼が存在しない世界では、自身の安全を担保するためのコストはバカになりません。信頼があったら、こうしたコストを払わずに済むのに、建前を廃したがために逆に無用なコストが発生するといえます。これは社会にとっても個人にとっても、多大な損失ということができるでしょう。
厄災②:無礼や無関心の連鎖が起こる


綺麗事を必要ないと切り捨てると発生する厄災の2つ目は、「無礼や無関心の連鎖の発生」です。
前述の「社会における信頼と協力の崩壊」と関連する話ではありますが、綺麗事が全く語られず共有されない社会では、社会に無礼や無関心が蔓延してかえって生きずらい社会になるでしょう。



ふむ、、、そういうもの?
いわゆる綺麗事の中には「すべての人間は自由で平等」とか「多様性は尊重されるべき」、「困っときはお互い様」のように、過去のいくたの惨劇の結果、教訓として語り継がれるようになったものもあります。こうした綺麗事を廃するとなると、廃する以前よりも廃した後は同じ過ちを繰り返すリスクは明らかに上がるでしょう。
当然、そうなれば社会に「自分さえよければいい」、「自分には関係ないから勝手に困っていろ」等といった自己中心的振る舞いを肯定したり、他人を見殺しにする風潮が加速度的に蔓延していく気がしてなりません。こうした世界が好きならば、それでいいと思いますが、大半の人にとってはそうではないと思います。
厄災③:孤立と健康悪化の促進


綺麗事を必要ないと切り捨てると発生する厄災の3つ目は、「孤立と健康悪化の促進」です。
先ほどふれたように、綺麗事を完全に廃すれば、社会や他人に対する不信感が増大し「周囲は敵だらけ」といったような感覚が人く共有されていくでしょう。そうなれば、必然的に「この世界に自分の見方など誰もいない」といった感覚を持つ人が、増えてきてもおかしくありません。



んー、それはそうかも。
中には、うまく自分の本音を適切な形で他人に伝達して他人と信頼できるような人もいるでしょうが、そんな人がどれだけいるか、、という話です。現状の社会ですら、そんな人はごくごくごく一握りなのですから、綺麗事が完全に廃されたら、どうなることやら、、ですよね。
主観的孤独や社会的孤立は長期的にみれば、健康リスク(早死リスクの上昇、心血管リスク、うつ)を引き起こしますから、「綺麗事を廃し本音だけで現実ベースで生きる」なんてことになったら、多くの人にとってかなりのディストピアになること必至です。
綺麗事との2つのうまい付き合い方





綺麗事とはどう付き合ったらいいん?



ふむ、以下の2つがあると思うで!
綺麗事が基本的に必要なのは、前述の通りです。しかし、綺麗事の本質はやはり建前だったり理想論だったりするので、現実とは必ずしも一致しません。そのため、過度に綺麗事を内面化すると、痛い目にあいます。綺麗事とは、付き合い方を考えていく必要があるのです。
そこで、ここでは綺麗事との付き合い方について、考えてみたいと思います。綺麗事とのうまい付き合い方については、以下の通りです。
綺麗事との2つのうまい付き合い方
- 付き合い方①:現実的な行動計画に落とし込む
- 付き合い方②:自分の大事にしたいものを見つけるガイドにする



それぞれ、詳しく見ていこう!
付き合い方①:現実的な行動計画に落とし込む


綺麗事とのうまい付き合い方の1つ目は、「現実的な行動計画に落とし込む」です。
綺麗事の弱点の最たるものとして、「あまりにも理想論にすぎる」、つまり「抽象的過ぎて具体性に欠ける」ことがあげられます。例えば、「みんな仲良く」といったとしても、現実はいばらの道です。



そうだねえ、、、わかるわ。
ここで大事なのは、「では、どうやったら仲良くできるようになるか?もし頑張っても折り合いがつかない最悪の事態においてはどう対処する?」といった事をきちんと具体的に詰めていくことでしょう。そうでないと、ただお題目を唱えるだけで何にもなりません。
例えば、SMARTゴール(Specific, Measurable, Achievable, Relevant, Time-bound)のフレームワークを用れば、理想論にすぎない綺麗事を現実的なステップに分解していきやすくなるでしょう。
参考:SMART Goals
綺麗事は現実的な行動計画に落とし込もう
付き合い方②:自分の大事にしたいものを見つけるガイドにする


綺麗事とのうまい付き合い方の2つ目は、「自分の大事にしたいものを見つけるガイドにする」です。
先ほどふれたように、綺麗事の中にはこれまでの歴史上の惨劇などの教訓に由来するものもかなり含まれています。そのtまえ、そうしたきれいごとの中には、あなたが個人的に「確かにそうだよな。現実はともかくそうあってほしい」と感じるものもあるはずです。



確かに、共感できる綺麗事もあるにはあるね。
そうした綺麗事は、あなたが人生において大事にしたいものを発見するためのガイドとして活用できる可能性があります。自分の大事にしたいものを見つけ、それに沿って行動することで人生への満足感と自己肯定感を自然に上げることができるので、そういう意味では綺麗事もかなり有用です。
共感できる綺麗事をベースに自分の大事にしたいものを明確にする方法を実践する手順は、以下の通りです。
まず、社会や日常に存在する「綺麗事」の例を集めていく。例えば、集めるきれいごとの例としては、以下の様なものがある。
- 「人はみな平等である」
- 「家族を大切にするべきだ」
- 「挑戦することに意味がある」
- 「助け合って生きることが大切」
- 「子どもは社会の宝である」
違和感を感じてもOK。とりあえず自分の心に触れるものを書き出す
作成した綺麗事リストを眺めながら、次の質問を自分にしてみる
- これは「きれいごとだな」と冷めて見えるか?
- それとも「どこか心に響く」「こうあってほしい」と感じるか?
心が少しでも動いたものをピックアップする
響いた綺麗事を「行動可能な価値(大事にしたいもののこと)」に変換していく。
変換の例
- 綺麗事:「人はみな平等である」
→ 価値:「誰に対しても公平に接する」「立場にかかわらず相手を尊重する」 - 綺麗事:「挑戦することに意味がある」
→ 価値:「失敗しても挑戦を楽しむ」「成長のためにリスクを取る」 - 綺麗事:「助け合って生きることが大切」
→ 価値:「困っている人に手を差し伸べる」「感謝を言葉で伝える」
理想的フレーズを、自分の行動原則に落とし込むのがポイント
先ほど見つけた価値を、行動に変えていく
- 「誰に対しても公平に接する」 → 今週、初対面の人に意識して笑顔で挨拶してみる。
- 「失敗しても挑戦を楽しむ」 → 1つ新しいことにトライする(料理、スポーツ、仕事など分野は問わない)。
- 「感謝を言葉で伝える」 → 1日1回、身近な人に「ありがとう」を言う。
価値は方向性、行動は歩みそのものである
行動を以下の質問を自分に投げかけながら、振り返っていく。
- 「この行動は自分の価値に近づく感覚があったか?」
- 「もっと別の形で表現できるか?」
- 「他に共感できる綺麗事はないか?」
この振り返りを通じて、価値がより自分らしく具体化していく
なお、自分の大事にしたいものを明確にするためには、上記手順の他に以下の記事で紹介する方法を実践してもいいと思います。
綺麗事は自分の大事にしたいものを見つけるガイドにしよう
綺麗事の必要性に関するFAQ





綺麗事の必要性について、まだ気になることがあるんよね。



んじゃ、最後に疑問にこたえていこうかのお。
最後に、綺麗事の必要性に関連した疑問について、回答していきたいと思います。
FAQ①:綺麗事を信じると現実逃避にならない?


現実逃避のリスクはありますが、適度な綺麗事は行動の指針になります。心理学では、「現実的楽観主義」(realistic optimism)が成功を予測する要因とされます(Schneider, 2001)。<grok:render type=”render_inline_citation”></grok:render> 現実を直視しつつ、希望を持つバランスが重要です。
FAQ②:綺麗事を言う人は信用できない?


綺麗事を言う人の信頼性は、行動の一致度で判断できます。心理学の「整合性理論」(Festinger, 1957)では、言動一致が信頼感を高めるとされます。 綺麗事を言う人の行動を観察し、誠実さを見極めましょう。
綺麗事は個人と社会の発展に必要!ただ綺麗事との付き合い方はきちんと考えよう!


一見無駄に思える綺麗事ですが、実際は、綺麗事は個人と社会の発展に必要です。とはいえ、綺麗事をそっくりそのまま内面化すると、現実で痛い目にあってばかりになるので、付き合い方についてはきちんと考えるべきでしょう。綺麗事を完全に捨て去るのも、信じすぎるのもアンバランスということです。
ただ、こうした使い分けや信じる度合いの調整といったものは、自分自身のメンタルが安定していてこそ適切に行えるものです。そのため、綺麗事に対して過度に敵対的になっていたり、妄信していたりといった場合は、まずは日々自分のメンタルケアを徹底的に行っていく必要があります。



安定した精神状態は、全ての判断土台やからね。
ただ、自分だけで日々メンタルケアを効率的かつ適切に行うのは、中々難しいですよね?メンタルケアを手軽かつ効果的に行いたい人には、認知行動療法ベースのメンタルケアアプリAwarefyがおすすめです。Awarefyなら手軽に効果的なメンタルケアができます。
また、Awarefyを使えば月額1,200円で手軽に効果的なメンタルケア(マインドフルネスを含む)が始められるので、経済面も安心です。さあ、メンタルケアアプリのAwarefyを使って、人間関係と人生を豊かにしていくための下地を整えていきましょう!
\月間1,200円(税込) ~/
\AIが認知行動療法でメンタルケアを徹底サポート!/
/24時間いつでも悩み相談可能!\!\